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作家相片汪牧耘

私と中国・ラオス/汪 牧耘

已更新:2021年1月29日


私にとっての「フィールド」は、とても曖昧なものです。


大学は、漢方薬学部出身。当時のフィールドは、薬草が散りばめられている中国の様々な山や農園でした。私が語りかける相手は薬草たち。「あなたの価値はなんでしょうか?」と化学成分の検査機械で尋ねます。


大学卒業後、「私はオウマキウンです。…はい、大丈夫です」という程度の日本語で日本留学。

日本語学校を通っていた時期において、情報もツテもない世界の中で「進学するか帰国するか!」というプレッシャーを感じながらたくましくなり、入試説明会と牛丼屋さんのバイトの間を往復しながら日本社会の異なる側面を窺う日々を過ごしていました。今にして思えば、二度と経験したくないほど「貴重」な経験でした(笑)。


もし、東京を「先進国とは何か」を論じるフィールドとして考えたら、私はもうつい、6年間も「住み込み調査」をしてしまったことになりますかね。


「フィールドとは何か。」


またのご機会に皆さんの意見をお聞きしたいですが、この記事ではまずオーソドックスに、自分の研究や論文で取り扱ったフィールド、中国とラオスについて語ってみたいと思います。


1  開発に翻弄される土地、中国貴州省・石門坎


修士のときに、ふるさとの中国貴州省にある「石門坎」(せきもんかん)という小さな村に出会いました。


石門坎とは、20世紀初めにイギリス人のキリスト教宣教師の訪問をきっかけに、大きな教育の成果を収めた土地です。しかし、1950年代後半から、石門坎は中国全土で起こった一連の政治的運動に巻き込まれ、反帝国主義の標的になりました。地元の教会や学校が潰され、人々も自殺や逃亡などといった悲惨な運命に追いかけられていました。


1906年

イギリス人の宣教師Pollardと石門坎のミャオ族


このような石門坎は、貴州省内では政治的にセンシティブな場所としても知られています。ところが、2016年には省政府の貧困撲滅政策の一環として、石門坎は行政主導の観光開発の対象地になりました。


民族、宗教、政治闘争、貧困問題…なんと劇的な歴史の持ち主!人文社会科学の知見を網羅的に知りたいなら、この村は鍵になるかもしれない、と思いました。しかし、石門坎に初めて会いに行った当時の私は、その土地が様々な勢力に翻弄されてきた歴史の重さや、その現実への無力感にふさぎ込んでいました。


2016年の石門坎の風景

開発、タバコ栽培の農家、遊んでいる子供


そのときに助けてくれたのは、地域にいるTさんという若い政府職員の、石門坎への深い愛情でした。とりあえず石門坎が大好きな彼のような人のためにできることをやろうという気持ちは、修論を書く最初の動機となったかもしれません。修論では、「政府にとって触れられたくもない石門坎ではなぜ今になって、行政主導の観光開発が進められるようになったのか」を問いに、行政側の考えが逆転した背景に着目して研究に取り組んできました。


石門坎の政治的なセンシティビティを懸念して、インタビューの直接引用について修論を提出する寸前までためらっていました。その私に、Tさんは次のようなメッセージを送ってくれました。


「私にとっての石門坎は、故郷というよりは遠方であり、1つの地名というよりは1つの歴史だ。石門坎の有名な人、声なき者、大事件、小事件が寄り集まって、石門坎の歴史の高鳴りとなった。まるで洪水のように。わたしは、ただその流れの中の取るに足らないほど微々たるものだ。だから、妹、あなたの書きたいものを書こうね。わたしがキャリアに期待がないので、恐れるべき面倒なことなんて、ないよ。」


大泣き。


修論を書き終わった今になっては、石門坎は研究のテーマでなくなりました。ただ、夏休みに村に戻って、常に姿が変わる石門坎の道をうろうろするのは、いつの間にか私の年中行事となっています。


2 何もしない力、ラオス


人間の生活や環境にこれだけ影響を与える『開発』とは一体何なのか」を自分なりに答えてみたいと思って、博士課程を進学し、開発の「有り方」について勉強する機会がたくさんありました。それに対して、東南アジアにあるラオスは、開発の「無し方」を見せてくれる大切なフィールドでした。


ラオスとはどのような国でしょうか。まずは「あまり知られていない国」だと思います。日本で国際運転免許を取るときに、「行き先の国はどこですか?」と窓口の従業員に聞かれ、「ラオスです」と答えました。


「へえ、ラオス?そんなところあるのか…」


従業員のおじさんが困っている顔は今でも記憶に新しいです。


確かに、経済や人口規模を周りと国と比べてみれば、ラオスは「強者に囲まれている弱者」ともいえ、その存在感が薄い理由はわかりやすいです。中国と国境を接しているラオスへの私の印象も、上座部仏教や戦争被害などといった曖昧なものにとどまっていました。


初めてラオスに行ったのは2019年の夏に法政大学のフィールドスクールに参加したことがきっかけです。現地の方々と話し合うことは刺激になるのはもちろんのこと、そこにいるだけで自分が持っていた開発への認知がアップデートされていくのは、ラオスで独特な体験でした。


首都のビエンチャン市で歩きまわり、街の日常風景に驚いた経験はその一つです。店の看板の多くは英語、フランス語や中国語などの外国語で書かれており、ほとんどのテレビはタイの番組を放送しています。国家意識の強い大国で育てられた私にとって、「様々な外国」を何気なく受け入れているラオスの柔軟性は不思議なものに見えました。

一回入ってみたい、ビエンチャンの美容室


こうした好奇心に動かされたからでしょうか、JICAラオス事務所でインターンシップをする機会が目の前に現れたときに、すぐに取り組みました。さらにそのインターンをきっかけに、「不透明な濃霧」にある中国の政府系開発援助の現場に携わることができました。


自転車に乗って、メコン川の朝日を浴びながらJICA事務所に向かい、そして夕日が沈むまでにホームステイの家族のところに帰る道は、2020年の鮮やかな記憶でした。妹のDouのシン(伝統的な腰巻スカート)を着て出勤し、家に戻ったら、家族のカラオケ大会や、親戚・友人の結婚式、パーティや、葬式に誘われるなど、賑やかでとても濃い日々です。


家のまえのメコン川



「世界がどう変わっても、ラオスは変わらない。」

「仕事は全然進まないが、生活するには気持ちがいい。」


外国から開発援助をしにきた人たちがよくそう言います。

ラオスで、開発の神髄が問われます。何かをして価値を創り出そうとすることを「開発」だとすれば、実は何もしなくても良いと思わせる経験がラオスでたくさん得られるからです。このような、人を開発する、そして自分を開発することに多少疲れてきた人を休ませる力を、ここで「ラオパワー」と呼んでみましょう。


フィールドとは何か。

私はまだうまく表現できません。


ただそれぞれのフィールドに預かってもらっている異なる自分がいる気がしてきました。当時の自分ともう一回出会える場としても、フィールドは私によって欠かせない存在です。



(最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございました。)


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