私とウガンダ/大平 和希子

已更新:1月 28


 私のフィールド、ウガンダとの出会いは今から12年前。


 それからさらに遡ること4年。カナダの大学で国際関係学を学んでいた頃に、授業の中で「子ども兵」という存在を知ったことが、ウガンダに行くきっかけとなった。


 「これから平和な世界をつくっていく子どもたちが、武器を持って戦うのは間違っている」と授業の中でキッパリと言った先生の姿に感銘を受け、それからというもの、「子ども兵のいない社会を作りたい!」というパッションを持ち学問に励むようになった。


 さて、自分の中に熱い想いを抱えたのはいいものの、若干20歳そこそこの自分に何ができるのかはさっぱり分からない。「とりあえず、子ども兵のいない社会を作りたいなら、子ども兵が生まれてしまう根本的要因を理解しなきゃだめだな。」と飛び込んだのがウガンダだった。


 ウガンダには青年海外協力隊という制度を使って行った。ここで盲点が一つ。私がウガンダに赴任した2009年当時、3万人以上の子ども兵を生み出したともされるウガンダ北部紛争は終結から年数が浅く、外務省の海外安全ホームページではレッドゾーン。協力隊員が北部に渡航することは固く禁じられていた。


 北部に行ってみたくてウガンダにやってきたのに(ウガンダの人たちのために何かがしたい!国際協力に携わりたい!などと崇高な理由ではなくてごめんなさい。)、北部に行けないという歯痒い状況。これは仕方がないので、北部から車で7時間ほどのウガンダ中部で活動に勤しむ日々。そしてたまにJICAの北部事業担当者や現場で活動しているNGOスタッフとご飯に行き、子ども兵に対する私のパッションをぶつけたりした。気がつけば協力隊としての活動はどんどん充実していき、ウガンダで出会った人たちのことが大好きになり、慣れ親しんだウガンダを離れる日がやってきた(写真①)。同僚たちは、“We part only to meet again.”という素敵な言葉を送ってくれた。


写真① 12年前のウガンダで


 そして帰国。「協力隊」という身分ではなくなったので、今度こそ北部に行くぞー!と、帰国してすぐに航空券をゲット。この頃には北部もオレンジゾーン。北部で活動する日本のNGOをつてに単身ウガンダへと旅立った。


 これが私のターニングポイント。


 北部に滞在しつつ、ずっと行きたかったルワンダにも一人旅に出かけ、様々なことをぐるぐるぐるぐる考えた。この思考については大変長くなるので割愛するが、結果、「日本人は世界のことに興味がなさすぎる。世界で起きている様々なことを知って、それについて自分の力で考えて、行動できる人を日本に一人でも増やそう!つまり開発教育。私は日本で開発教育に携わりたいんだ〜!」というパッションを抱えて、日本へ帰国することとなった。ちなみに、ウガンダから日本への帰国便の中で、「この先しばらくウガンダの大地を踏むことはないだろう。」なんてポエティックなことを日記に書き残している。


 そして、念願叶い、教育機関(都内の某大学)へ就職したのが今から10年前。これが私の第二のターニングポイントとなった。


 この大学での教育活動がめちゃめちゃ楽しかった。助手という身分ながらもたくさんのチャレンジをさせてもらい、担当していた年間授業を通して学生と全身全霊で向き合う日々。ウガンダをフィールドとした新規科目も開設させてもらい、早々にウガンダの大地を再び踏むことにもなった。「これまでの経験が全部生きる天職だ!やっぱり教育という手段を選んだことに間違いはなかった!」と思いながら働いていたわけだが、この世知辛い世の中、こういうポジションはやっぱり任期付き。そう簡単に教育機関には居座らせてもらえない。ということで、もう一度大学での教育活動に携わるべく博士号という免許をとりに行くか!と、まずは修士課程に進学することにした。(この頃の私に、博士号取得までの道のりは恐ろしく険しいよ!と教えてあげたい。苦笑。)


 さて、ここまで読んでいただくと分かると思うが、私の研究への動機は教育活動にある。つまり、当時、「どうしてもこの謎を解明したい!」という研究へのパッションを持ち合わせていたわけではなかった。それでも受験するのに研究計画書は書かなくちゃならない。ということで、このエッセイの冒頭、子ども兵の話に戻る。学部時代に灯された燈はそう簡単には消えず、やはり研究したいのは子ども兵に関すること。ギャップを取り戻すべく近年の学術論文を読み漁り、なんとか研究計画書を仕上げ、無事進学。この時すでに30歳。(あれ?ということは今何歳?若手じゃないよね!というツッコミは聞こえないふりをしておく。)


 ここでまたまたトラップ。この人の指導を受けたいと選んだ某大学。その肝心な指導教員(になるはずだった方)が、私の入学直前に体調不良で休職。しかもその連絡が事務局の手違いで私の元に届かず、入学してから「指導教員がいない」という事態に直面。話が違う!と焦る私を拾い上げてくれたのがS先生。ここで、S先生と一緒に一から研究計画を考え直すことになった。


 本当に自分は子ども兵の研究をしたいのか、じっくり再考。

 

 再考した結果、今のフィールド、ウガンダ西部ブニョロ地域にたどり着いた。きっかけとなったのは、前職で新規科目開設のために訪れたウガンダでのRさんとの出会い。Rさんは、当時、小型武器規制に取り組む国際NGOのウガンダ支部代表を務めていた。Rさんは、「石油開発が進むブニョロ地域では、犯罪率が増加するなど不安定な状況が続いている。こうした状況に小型武器が違法に流れ込むと、石油の利権をめぐる争いと相まって、北部紛争のようにもなりかねないと危惧している。」と語ってくれた。ご存知のように、AK47という武器は、軽量で操作方法もシンプルで子どもでも扱いやすい。AK47が違法に出回るになったことが、紛争地に子ども兵が増えたことの一因とも言われている。


 S先生との会話の中で、このRさんの話を思い出した。うーん、ブニョロが気になる。ブニョロがウガンダ北部のようになるのは黙って見過ごせない。ブニョロへの思いがむくむく膨らんできたぞ。でも私はブニョロのことを何も知らないから、まずはブニョロの歴史を研究しなければ!と思った。結果、修士課程では、現在ブニョロで生起する不安定性の要因を植民地支配以前からの歴史に探る(“Contemporary Socio-Political Instabilities in Western Uganda: Learning from the History of the Bunyoro Kingdom.”)という割と大きなテーマに取り組んだ。これが、歴史書を通しての、私と私のフィールドであるウガンダ西部ブニョロ地域との出会いである。(出会いを語るのにA4用紙3ページ分。2500文字。ここまでお付き合いいただいたみなさん、ありがとう。)


 さて、ブニョロ地域は、近代行政区画の8県を領域とする片田舎。その中でも、私のフィールドはさらに小さく、ホイマ県という、推定人口37万人(2019年時点)ほどの県。県の中心部ホイマ市をはじめ、様々な村を訪れインタビューを行なっている。実は協力隊時代に一度だけホイマ県を訪れたことがあって、10年越しに訪れてみると、ホイマ県の発展具合に驚きを隠せない。10年前と同じところを歩いてみて、「本当に同じ街かしら?」と思うほど。石油開発のパワー、恐るべし。道路はどんどん舗装され、銀行やホテルは建設ラッシュ。中心部の外れには4階建ての大きなマーケットが建設され、人口もこの数年で急増した(写真②)。物価は高騰し、10年前は1泊12,000ウガンダシリング(当時のレートで約400円)でホテルに宿泊できたが、今では同じ設備レベルのホテルで40,000シリングほどである。


写真② マーケットから撮影した市街地の様子


 私はここをフィールドに、ブニョロキタラ王国という「伝統的権威」と呼ばれる制度と国家の関係性を研究している。短期的な調査(1〜2ヶ月程度)を複数回繰り返すというスタイルをとっており、初めてフィールドワークを行なったのは2018年。10ヶ月の息子を連れての予備調査からはじめ、2019年に本格的な調査を開始。2020年には2回渡航予定だったが、新型コロナウイルスの影響でブニョロがとてもとても遠い場所になってしまった。それでも、ブニョロの人たちは頻繁にメッセージを送ってくれる。最近になって、ブニョロ王国の重鎮から、王国の歴史書の編纂に関わってほしいというオファーをいただき、ちょっとだけ舞い上がったりもした。「歴史をよく勉強してくれてありがとう」という言葉をいただいたときは、「あぁ、修士課程で地道な歴史研究をやってよかったな。少しでもブニョロの人たちに恩返しできるように研究を頑張ろう。」と心から思えた(写真③ )。今でも教育へのパッションは私を突き動かしてくれるけれど、研究生活7年目、研究そのものを面白いと思えるようになってきた最近である。

写真③ ブニョロ王国の議事堂にて


 というわけで、ウガンダとの関わりは10年を超え、渡航は9回を数える。本エッセイ執筆にあたり「フィールドで驚いたことを1つ以上書いてほしい」とのリクエストをいただいたが、ある程度文化にも慣れ親しんできたので、今さらフィールドで驚くことはあまりない。初めてウガンダに行った当初は色々と驚いたのだろうけど、あの頃のフレッシュな気持ちを思い出すのはなかなか骨が折れる作業だ。なので、ここでは、フィールドで苦労したことを綴ろうと思う。


 今でも苦労しているのは、リサーチアシスタント選び。これはフィールドワーカー誰もが苦労することだと思う。私が設定している要件は、①ニョロ語・英語の通訳ができること、②できればニョロ人、③私のリサーチに興味を持ち、内容をある程度理解できる(つまり最低でも学部卒)、④リサーチにフルタイムで同行できる、の4つ。①まではどうにかなるのだが、②はなかなか難しい。そもそもウガンダ人全体に対するニョロ人人口は6%程度と非常に少ない。そして③になるといきなりハードルが上がる。ウガンダの大学進学率は5%未満と非常に低いからだ。そして、④となるとさらにハードルが上がる。学部を卒業して、それ相応のリサーチ力がある人は、当然フルタイムの仕事について忙しく働いているからだ。


 日本人研究者の伝で見つけてもらった方は、病気を患いすでに他界。ウガンダ人研究者の伝で見つけてもらった方は、全ての条件を満たしているように見えたのだが、実際フィールド調査を共にしてみるとインタビュー時の態度がとても横柄だということが分かった。これでは現地の方たちとラポールを築くことは到底難しいと判断。あえなく解雇。悩んでいたところに友人から紹介してもらった今のアシスタントは、フリーランスのリサーチアシスタント(ウガンダにはこういう人が結構いっぱいいる)。彼女は優秀なリサーチャーで、時に私に重要な視点や気づきを与えてくれる。ただし、ニョロ人ではなく、お隣のトロ人。ニョロ語とトロ語はとても似ているのだけど、たまに通訳内容が違っていたりするので要注意。とはいえ、人柄の良さやパンクチュアルなところなど、彼女は他の人にはないものをたくさん持っているので、これからしばらくは彼女とタッグを組んでやっていく予定である(写真④ )。


写真④ リサーチアシスタントと麦茶で乾杯


 こうやってたくさんの人に助けられながら、なんとかフィールド調査を進めている。フィールドに行けないまま月日が流れているが、なんとも困ったことに今年の7月に調査許可証の期限が切れてしまう。調査許可証を取る手続きは、それだけでエッセイ1本かけるほど煩雑で、精神的苦痛を伴う。もう二度とあのプロセスを繰り返したくない、というのが正直なところ。新型コロナウイルスの影響で日本に一時帰国していた友人知人もポツポツとウガンダに戻り始めている。調査許可証の期限が切れる前に、思い切ってフィールドに行くかどうか迷う。いずれにせよ、「戻っておいで。待っているよ。」と言ってくれる仲間が、遠いアフリカ大陸の片隅にいるということは、なんともありがたいことである。これからもフィールドでの様々な出会いに感謝しつつ、地道に研究に邁進していきたい。


46 次瀏覽0 則留言