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私と東ティモール/須藤玲



東ティモールとの出会い

(とちょっとだけ教育の話)


① フィールドと出会い



私が関わっているフィールドは、東ティモール民主共和国というとても小さな国です。東南アジアの国でありながら、ASEANに参加しておらず、日本では「あまり知られていない」国ではないかと思います。


元々この国については、中学高校時代に耳にしていました。イエズス会というカトリックの修道会が設立した学校に通っていたのですが、在学中に、イエズス会が、東ティモールという国に新しく中高一貫校を設立することになり、自分たちが使っていた机を送ったことで、「東ティモール」という名前はよく耳にしていました。



写真① 中学生だったころに使っていた机が東ティモールの学校へ


実際に東ティモールに訪れたのは、大学2年生の夏休みの時でした。もともと途上国の教育、特に初等教育分野に興味があったのですが、多くの東南アジアの国々は、ある程度初等教育が普及している中、東ティモールはまだまだ課題が山積していることを知り、この国の教育に関わりたいと思うようになりました。


また、東ティモールは国民のほとんどがカトリックであり、自身もカトリックだったことで、親しみを感じていたことも、東ティモールに入るきっかけの一つでした。現在のローマ教皇がイエズス会出身の神父であるということもあり、当国でのイエズス会への信頼はかなり大きいものがあるようです。特に、学部時代は上智大学に通っており、この大学もイエズス会の大学であったこともあって、東ティモールを訪問すると、とても信頼を置いてくれたのを覚えております。



写真② DFAT職員へのインタビューの様子。

この人もかつてはイエズス会とつながりの深い方!


② どういうところなのか


東ティモールは2002年に独立した、アジアで一番新しい国です。

ティモール島という島の東半分を国土(岩手県ほどの面積)に持ち、人口は約130万人です。この国は今でこそ、ある程度治安も維持されていますが、様々な困難を経験しています。約400年にわたるポルトガルによる植民、第二次世界大戦下における日本の支配、インドネシアによる支配、国連による統治を経験しています。また独立後も、クーデターによる混乱もあり、今に至るまで決して容易な道のりではなかったといえます。


こうした背景もあり、特に教育分野は課題が山積しています。紛争後社会ということもあり、学校教育のインフラが整っていないことがまず大きな課題ではありますが、より根が深い課題として、言語の問題があります。東ティモールには固有言語が30以上存在しているといわれており、もともと多言語社会でした。それに加え、ポルトガル・インドネシアの植民/支配、そして独立という激動の時代を経験したことによって、東ティモールの国民は世代間で使用言語が異なる現象を生み出してしまいました。


このことで、学校教育現場では様々な課題をもたらしています。例えば、言語の世代間ギャップによって、学校教育を担う教員世代は、インドネシア支配期に徹底したインドネシア語教育を受けていたため、ポルトガル語を話すことができません。しかし、独立後の学校教育では、公用語であるポルトガル語をメインとしたカリキュラムとなっており、教科書もポルトガル語で書かれています。よって、現場の教員の多くは、現在の学校教育のカリキュラムを行うことが困難である状況が生まれています。


こうした状況に加え、東ティモールがもともと有していた地域言語の多様性は、全国で行われる学校教育の質を担保するうえで、避けては通れないトピックになっています。つまり、東ティモールのもう一つの公用語であるテトゥン語は、学校教育でも教授言語として使用を認められている言語ですが、この言語は東ティモールの限られた地域(主に首都圏)の地域言語の一つであるため、ほかの地域言語との親和性が低い言語がいくつか存在します。こうした背景から、都市部と農村部の間で、学校教育の質の格差が生まれています。


東ティモールでは、言語における世代間ギャップと地域間ギャップが同時に起こっている珍しい国であり、多言語社会の下での学校教育の教授言語を考えるうえで、非常に面白い視座を与えてくれる国であると考えられます。特に、多言語社会における公教育といった全国での教育の質を考えていくうえで、こうした複雑な課題をどう乗り越えていくかという東ティモールの模索はとても興味深いです。


写真③ 手つかずの海はとてもきれいです



③ フィールドで驚いたこと


 自身が東ティモールの教育、特に教授言語問題について研究している中で、遠隔地の小学校を訪れたことがあります。その地域では公用語(ポルトガル語・テトゥン語)はあまり浸透しておらず、その土地の地域言語が支配的である状況でした。そのため、ポルトガル語で書かれた教科書を授業で使うことが困難であることが予想されました。しかし、実際に小学校を訪問し、先生方に「教授言語は何を使っているのか?」、「どのようにして授業を行っているのか?」などをインタビューしていく中で、現場レベルでの先生方の努力を垣間見たことがあります。すべての教師が、というわけではなかったのですが、中には、教科書をその地域の言語に翻訳した教材を作って、授業で使っていたり、ポルトガル語が話せる、(ポルトガル植民地時代に教育を受けた)長老を招いて、授業をしてもらったりと、子どもの学びを大切にした授業の工夫をしている先生がいたことは、とても驚きました。


写真④ 農村部の小学校


 また学校を離れて、東ティモール人の日常に目を向けると、彼らは、日常会話においてポルトガル語・テトゥン語・インドネシア語(バハサ)を組み合わせて会話をしています。さらに家庭の中では、さらに親の出身地域の言語も使われていることもあり、言語多様性の社会の中で、実に器用に言語を使っていることに驚かされました。ある友人に、「どうしてティモール人は、こんなに器用にマルチリンガルになっているのか?」と聞いた際には、「状況がそうさせるんだよ。」とシンプルかつ考えさせられる回答をしていました。


写真⑤ いつも通訳をしてくれる方が普段運営している音楽教室の生徒と

(ギターは弾けません)


最後まで、お読みいただきありがとうございました!

まだまだエピソードはありますが、それはまた別の機会に!

そして、ぜひ東ティモール調べてみてください~!


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